甲子園の思い出

 平成25年6月14日 弥吉にて

S48年会
 今年の6月14日に駅前弥吉にて、福商S48会による座談会が行われました。S48会とは、昭和48年にご卒業された福商野球部OBが定期的に開いている会で、今回は戸板さん、近藤さん、安井さん、竹下さん、長谷川さんが参加され、野球部時代の思い出を語っていただきました。
その中で、興味のある話が出ましたのでご紹介したいと思います。
第55回全国高校野球選手権 二回戦 福井商 対 前橋工業戦のお話です。
五分間の出場
試合開始。そのとき福井商ベンチから一人の選手が消えた。大観衆の目は、ホームプレートをはさんで整列する前橋工、福井商の二十八人に集まっていた。だれも、彼の姿には気づかなかったにちがいない。
試合前、彼の活躍に目をとめた観客も、少なかっただろう。ノックバットから、白球が黒い土をかんで右に、左に。そのノッカー、背番号のない無番選手が彼だった。が、この時もスタンドの目は、バックネット前で行われた2回戦の組み合わせ抽選に集まっていた。
彼-竹下賢二郎君(18)。福井商三年生のマネジャーである。出番は偶然にきた。「福井商、ノックをはじめてください」との場内アナウンスで、選手たちがダイヤモンドに散った。竹下君は北野監督の姿をさがした。いない。遊撃のポジションから主将の戸板君が大声をかけた。「お前、やれ」黒いノックバットを握りしめて、竹下君はホームベースへ走った。ひざのふるえが、自分でもよくわかった。「いま踏んでるんだ。甲子園の土を」という感激のせいだった。  内野へ十数本。北野監督がやってきた。目が笑っていた。「タケ、もっと打てよ」というふうに・・・。竹下君は黒バットを監督に差し出した。そしてベンチに引返し、もう一本のバットを持って外野へノックに走った。ノック時間は五分間。竹下君の退場時間が迫っていた。
プレーボール。竹下君は、ネット裏で、スコアブックを開いた。マウンドのエース水野君を、食いいるように見つめる。「あいつ、恥ずかしがり屋だから、あがらなければいいんだが・・・」トップ打者を三振にとった。「うん、大丈夫。きょうはいけます」福井大会でも竹下君はスコアをつけた。そのデータ分析にはこうあった。「立ち上がりがよければ、まず打ちこまれない」
竹下君が甲子園出場の夢を断たれたのは、一年生の春だった。「激しい運動は、ひかえなさい」と、福井市内の病院で宣告されたのだ。病名は腸カタル。ショックだった。福井市立進明中学校のころは、捕手で四番打者。甲子園へ出たい一心で福井商に入ったのに。悩んだ。父親の義信さん(51)に相談した。「男がいったんやり始めたことは、最後までやりぬけ」と父はいった。「より、それならマネージャーに。そしてみんなを甲子園へ出すんだ」
三回、福井商は6安打を集めて、一挙に5点。五回には中村君の二塁打で追加点。
「中村と僕とは、ライバルだった。入部したとき捕手の座を競ったんです。しかし、彼はやさしいヤツで、僕が野球を断念しようとしたとき"やめないでくれ"と真っ先にいってくれた」
マネージャーの仕事はきつかった。北陸の冬。マウンドの雪を一人でかいた。ちぢこまる手を息で温めながら。授業がすむとすぐグラウンドへ飛び出し、選手がウォーミングアップする間に、ボール、バットを運んだ。そして、監督の手足になってノックした。多い日は、五百本。腰痛で病院通いしながらも、続けた。「ノックだけは、自信があったんです。まさか甲子園でやれるとは思ってもみなかったけど・・・」
竹下君の予想は的中。水野君は前橋工を完封した。圧勝だった。校歌が流れた。「友情語れば、誠実あふれて・・・」立ちあがった竹下君は、脱帽した。ホームに並ぶ汗と泥にまみれた十四人と違って、竹下君のそれは白かった。 センターポールにあがる校旗を見つめる竹下君。その胸を感激がよぎった。
「監督さんが、ノッカーを譲ってくれたんだ。きっと」
「でも、やっぱり打ちたかった、走りたかった。この甲子園で」
サヨナラ押し出し 福商痛恨の幕切れ
最後に近藤さんからのエピソードです。甲子園の試合前に、川崎重工のグラウンドで練習をした時、監督さんに火がついて、試合直前にも関わらず100本ノックが始まったそうです。近藤さんの結婚式のスピーチでも監督さんがこの100本ノックのことを語ったそうです。
他にも沢山の福井商業OBならではの話題を沢山聞くことができました。
本日は昭和48年会に参加させていただき本当にありがとうございました。

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