はるかなる甲子園(栗山英樹)
【言葉の威力】
そんな北野監督、やはり多くのことを甲子園で学んだと話す。
大きなものとして、こんな表現をしてくれた。「言葉は魔法であり、悪魔だ」と。
福井商業はまだ甲子園優勝まで到達していないのだが、センバツ準優勝、ベスト4に2度駒を進めている。
まずは78年のセンバツ決勝。
ここまで戦う中で、マスコミの評価として、全て相手チーム有利という中で伸び伸びと戦ってきた。
そんな決勝前、北野監督の仲間、野球部のOBがたくさん来て、選手に元気づけるために少し話をしてくれた。
みんな本当に頑張っている、凄いことだと褒め称えたあとで、「でもここまで頑張ったのだから優勝しよう」「ここまできたら、準優勝も1回戦負けも同じ、勝って帰ろうではないか」と。
頑張っている選手の背中を押してあげようと本当に愛情のある話だった。
ところが、翌日の朝食、旅館のみなさんが、心配になるぐらい食事に手が付かない。
とても空気は重くなるし、そんな感じだったと振り返る。
これまで、負けて元々と思って、ひたすらにぶつかっていった選手が、勝たなければいけないと思いだした時点から何かが変わっていく。
もちろん、そういった話がなくても、決勝まで来れば、自然にそういった雰囲気になっていくだろうし、負けて元々という準決勝までの雰囲気でやっていても、結果は変わらないかもしれない。
ただ、選手の意識をどこに持って行ってあげるのか、本当に大切だと感じる瞬間だった。
言葉によって勝たなければいけないという呪縛にかかってしまう経験をする。
その意味では甲子園ベスト4に2度駒を進める中、こんなこともあったそうだ。
試合が終わって、ベスト4。明日の試合に向け、マスコミ対応をして、夜のスイングに行った選手の状況を見に行こうとしたら、みんな帰ってきた。
随分早いなと思ったそうだが、さらに公衆電話などで、家族への報告などを行っていた。
監督の目からすれば、ここまで頑張って来た選手、明日の試合のために、少し緊張感を持った方がいいのかなと、「何をしているんだ、明日そんな気持で大丈夫なのか」と話をした。
ところがこれが裏目に出てしまった。
緊張感というより、勝たなければいけないという力みで、本当に硬くなってしまってのプレー、その意味では良かれと思って言葉をかけたことで、力が入りすぎたりすることはある。
でも話を聞いていて、きっとこれ以外の場面では北野監督の言葉でどれだけの選手が救われてきたのか、大きな力を与えてもらったのかが分かる。
実は私ごとになるのだが、大学時代、二つ上のキャプテンに本当に世話になったのだが、その先輩、奥田静巨さんがチームの中では唯一甲子園を経験していた。
まさに福井商業出身で北野監督の教え子なのだが、その先輩に聞いていた話を思い出す。
甲子園でこんなことがあったそうだ。
奥田さんが1番打者としてチームを引っ張っていたのだが、その試合(1977年夏対高知高戦)、終盤8回に来てどうしても4点差が縮まらない。
そんな中1死一、二塁というチャンスを掴む。
バッターが9番という場面、1番の奥田さんが呼ばれる。「頼んだぞ!」
何と9番にバントのサインを出して、ツーアウトにしてもランナーを2人スコアリングポジションに置いたのである。
ヒットが出てもまだ2点差、それでもランナーを送っての勝負。
奥田さんがその時感じたことは、信頼されることの意味。何か自分が大人になっていくような感覚があった。
監督が自分を認めて、信じてくれている。そしてバントで送ってくれた仲間のためにも、何が何でも打たなくてはいけないと。
それも力むという感覚がなく、監督の思いが本当の意味の底力を与えてくれているような感じだった。
そんな気持ちはやはり結果となって現れる。
そこでツーベースが出て2点。さらに続く2番がタイムリーで1点。結果的にはあと1点足りずに敗れるのだが、その時の試合を監督に聞くと「それは状況判断、最後まで絶対諦めないし、その中で最も可能性ある攻撃に信頼してかけていくしかない」
よく大学時代、奥田さんに言われたのが、この諦めない気持ちだ。
こういった監督の思いは選手にしっかりと伝わっていく。
とにかく少しでも諦めの気持ちが生まれれば、そこでゲームセットになってしまう。
そして、信頼感などしっかり伝える言葉、選手を本当の意味で一本立ちさせていくことも、タイミングであり、言葉なのだ。
そんな大切なことを、試合をしながら選手に伝えてきたのが北野監督なのだ。